「カラー版 忘れてしまった高校の世界史を復習する本」中経出版 第三刷 著者 祝田秀全についてのメモです。
読んだ人の一助になればと思います。
以下、ページ数とセクションの名前で章立てしています。
著者名とともに記されている日付が「20011年6月」になっています。
ハンガリーの国名について「「Hun (フン族)のガリア」侵入に国名(ハン・ガリア)の由来があリます。」との記述がありますが、誤りです。そういった俗説は実在したようですが、現在ではほぼ否定されています。
ハンガリーはWikipediaにもあるように十部族を表す「オノグル」という言葉が語源とされています。
「征服王朝時代の中国を、英語で"China"とはいいません。"Cathay" とよびます。」という記述がありますが、そのような事実は確認できませんでした。
各種英和辞典、英英辞典では、Cathayは中国の古語で、現在は詩文などでしか使わないと言ったことが書いてあります。
英語版のWikipediaにはCathayという単語の詳しい歴史が記載されていますが、特に征服王朝と関連付けた議論は見あたりません。
逆に英語で征服王朝を意味する「Conquest dynasty」をWikipediaで見てもCathayという単語は全く使われておらず、普通にChinaと記述されています。
Cathayという言葉は「キャセイパシフィック航空」や「キャセイホテル」など、一部の固有名詞としても今でも使われていますが、そこに特に「征服王朝」というニュアンスはありません。単に中国の英語での古語として、言葉の響きなどから使われています。
実際にこの言葉が使われていた時代も、すくなくとも征服王朝のうち清の時代にはChinaと同一と分かっていたようなので、これもあいません。
もともとCathayという語は中国の王朝の遼を中国と別の国と勘違いして、その支配階層のキタイ人から生まれた語です。その遼が中国征服王朝であったとしても、別にCathayが征服王朝と直接関連付けられているわけではありませんし、その語が使われていた時代にそのような概念自体あったか怪しいところです。(征服王朝という言葉は20世紀半ばにできた言葉です)
よってこのような事実はないか、あったとしてもごく一部だけでそう解釈されており一般的ではないと思われます。
「じつは、帝国ホテル元総料理長の村上信夫さんがアメリカ映画『ヴァイキング』(1958年) を見てヴァイキングたちがたくさんの料理を豪快に食べるシーンをヒントに、食べ放題メニューを「バイキング」と名づけたというのが俗説です。」という記述があります。
実際には帝国ホテル社長の犬丸徹三氏がレストラン名を社内公募し、それが映画などをヒントに「バイキング」となり、そのレストランで食べ放題メニューを出していたので、後発の他のレストランが食べ放題にバイキングスタイルと名付けたのが語源のようです。
「鎮圧軍にミュンツァーが連行されるとき、その頭上に突如、虹が輝きました。」という記述があります。しかし、虹が出たらどうなのか分からなかったため、調べてみるとミュンツァーは虹の描かれた旗をシンボルとして使っていたようです。
虹はノアの箱舟の時に現れたため、神との契約や同盟と言った意味があるそうです。
H.J. ゲルツ著「トーマス・ミュンツァー 神秘主義者・黙示録的終末預言者・革命家」によると、ミュンツァーは、彼が中心となった反乱の途中で現れた太陽にかかった暈(かさ)が虹に似ていたことから、それを神による勝利の予告だなどと言って仲間を説教で励ましたという記述がありました。
しかしその直後に反乱軍は諸侯軍に鎮圧されて虐殺されます。ミュンツァーはしばらく逃げてから捕まって拷問され処刑されます。
このことを上の記述は指しているのかも知れませんが、虹ではなく日暈で、出たのは連行されるときではなくその前の説教の時です。
また、その印象もかなり変わります。
本の記述だと虹は神が殉教者に見せた最期の奇跡みたいですが、史実だと追い詰められ冷静な判断ができなくなった宗教者とそれに巻き込まれた者達の哀れな末路の予兆のようです。
いずれにせよ虹を旗印にしていたことやその意味がこの本の中では説明されておらず、それではこの部分の記述の意味が分からないのではないかと思うので、こちらで指摘しておきます。
「宗教改革のルターの父は、フッガ一家につぶされた小さな鉱山経営者でした。フッガ一家への憤りが、ルターの免罪符販売批判の一端をなしていたようです。」との記述があります。
しかし、日本語、英語でのインターネット上の情報や、図書館などでルター関連の書籍などを見ても、そのような事実は確認できませんでした。
ルターの父親は鉱山経営者でしたが、苦労して地元では名士として知られるようになり、その財産でルターを大学に行かせることにします。
ルターには自分の事業を手伝って欲しかったようで、ルターが聖職者になるときいて最初は反対したそうです。
その後は地元の仲間とともに訪れて多額の寄付も行っており、人望も資金力もあったようです。そもそも、当時はまだ大学に行くのが珍しかった時代です。資金がなければ、ルターは大学に行けなかったでしょう。よって特に事業がつぶされているような気配はありません。
その後、何かあったのか、それとも若い頃に何かあったのかも知れませんが、一般的には父親の事業がフッガー家につぶされたことを、ルターの免罪符糾弾の動機とは考えられていないようです。
一般的にはルターの性格や宗教的な情熱などが動機とされています。
参考文献
ルター:ヨーロッパ中世世界の破壊者 (世界史リブレット人) 森田 安一 山川出版社
マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)徳善 義和
中国の国旗について「大きな星は人口の90%以上を占める漢民族をさしています。ほかの4つは満州族、モンゴル族、ウイグル族、チベット族のことです。」という記述がありますが、誤りです。
日本語版Wikipediaには「大星は中国共産党の指導力を、4つの小星はそれぞれ労働者、農民、小資産階級・愛国的資本家、知識人の4つの階級を表す。」と記載があります。
また、英語版Wikipediaには、星が民族を表すと言われることもあるが、中華民国北京政府の使っていた五族共和の旗の説明が誤って混同されたもの、といった意味の記述があります。
フランス革命と浅間山大噴火を関連付ける説が紹介されています。そういう説はありますが、信憑性は低いと考えられているようです。
なぜなら、その前にアイルランドのラキ火山が浅間山よりも桁違いの大噴火をしており、このころの世界的に起こった飢饉はおそらくこの火山の影響が大きいと考えられているからです。
本の中で「当否はともかく」と書いてあるところを見ると作者もあまり信じてはいなさそうですが、わざわざ本を買って時間をかけて読み、信憑性が低い論を知るより、より信憑性が高い説があるならそちらを知りたいという人もいると思いますので、指摘しておきます。
1840年のアメリカ大統領選挙について、「俗説ですが、以来、OKは「大丈夫」という意味で広まっていきました。」という記述がありますが、これは俗説ではなく、ちゃんとした調査の存在する定説の一部です。
Wikipediaには
アレン・ウォーカー・リード(英語版)は、1963年から1964年にかけて「アメリカン・スピーチ」誌の6つの論文で略語「O.K.」の初期の歴史について決定的な研究を発表した。
(中略)
O.K. の広まりの第2段階は1840年の合衆国大統領選挙で、
(後略)
とあり、ちゃんとした論文がこの本の出版の20年以上前に出ています。
ちゃんとした研究の成果を俗説扱いするのは良くないと思うので指摘しておきます。
モルトケについて、「当時その信条を「鉄道は国家なり」と断言したことは有名です。」という記述がありますが、この「鉄道は国家なり」をモルトケが言ったという事実は確認できませんでした。
モルトケが鉄道を重視したのは事実で、「ドイツ参謀本部(渡部 昇一 著)」という本に「鉄道は国家なり」という節があり、モルトケについて書かれています。しかし、この中でもこれが彼の発言であるといった記述はありませんでした。
この言葉自体は日本の物ではないかと思います。 同じようなものとして「鉄は国家なり」という言葉がビスマルクの発言とされることがありますが、これも彼が実際に言った訳ではありません。 インターネットで検索すると、この言葉は日本の製鉄産業関係者が使ったようです。 おそらくルイ十四世の有名な言葉「朕は国家なり」をもとに、日本の産業界が作った言葉ではないかと思われます。 「鉄道は国家なり」はこれのさらなる派生ではないかと思います。
また、特に有名な言葉でもないと思います。
魯迅について、日本の仙台医学専門学校で試験不正行為のいいがかりをうけた「事件」が退学を決意し文学に打ち込むようになったという記述があります。しかし、一般的には魯迅が自国に帰り文学の道を志すことになったのは、中国人がロシアのスパイとして打ち首にされそうになっている幻灯写真を、中国人自身がただ眺めているのを見たことがきっかけとされています。このことは「幻灯事件」などと呼ばれています。
なぜなら、時系列的にこちらが後で、なにより魯迅自身がはじめての小説集「吶喊」の自序でそう書いているからです。
試験不正のことも魯迅に影響に与えたと思いますので誤りではないかも知れません。この本の作者がどういう意図で魯迅の作家へのきっかけとしてこれを選んだのかも分かりません。しかし、一般的な説を知りたい人も多いと思いますので、ここで指摘しておきます。
「これは「チャーチル・メモ」(百分率協定)とよばれ、 戦後ヨーロッパの分裂のきっかけとなりました。 」という記述がありますが、百分率協定(またはパーセンテージ協定)のことを「チャーチル・メモ」とも呼ぶという事実は確認できませんでした。
英語でインターネット検索すると「The Churchill Memorandum」という海外の歴史ミステリーがあり、「チャーチル・メモとは何か?」が謎の一つとなっています。これでチャーチル・メモが百分率協定の事と一般に知られていては、タイトルでいきなりネタバレになるので、少なくとも英語圏ではこのように呼ぶ習慣はなさそうです。
日本語でも百分率協定をチャーチル・メモと呼んでいる例は見つかりませんでした。見つからなかったからといって、絶対にないとは言えませんが、一般的ではないのは確かだと思います。
「1947年3月、アメリカ民主党大統領のトルーマンは、共産主義の政治的影響がこれ以上世界に広がることを容認しないと宣言し、ソ連を公然と敵視しました。このソ連に対する「封じ込め」政策をトルーマン宣言といいます。」という記述がありますが、誤りです。
これはトルーマン・ドクトリンの説明です。トルーマン宣言ではありません。
トルーマン宣言は通常、1945年の海洋資源に対する宣言のことを指します。
「1969年、ついに中ソ国境戦争が起こると」という記述がありますが、1969年の衝突は通常「中ソ国境紛争」と呼ばれています。
ここで指摘したのは、歴史が得意でもない私が、それでも何かおかしいと思った部分をインターネットや書籍で調べてやはり何かおかしかった部分です。これ以外にも正確ではなさそうな部分、重要性より珍奇性を話題の選択基準としているような部分、作者の独自解釈なのか一般的な解釈なのかどうかわからない部分は多くあります。
この本は現在でも電子書籍として入手可能なようですが、タイトル通り、世界史の教科書のダイジェスト版のようなものを想像して、正確な事実が書いてある本だと思わない方が良いでしょう。
また、すでに読んでしまった人にはこのページがその知識を疑い必要なら修正するのに少しでも役立てばと思います。
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